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第1章 第4話 戦場のような朝と、ぎこちない朝食

Auteur: 夢見叶
last update Date de publication: 2026-01-22 20:52:50

 目を覚ました瞬間、宰相邸が燃えているのかと思った。

 壁の向こうで走る足音、廊下を切る指示の声、紙束の擦れる音。

 まだ陽が昇りきらない時刻なのに、空気だけが昼間の速度で動いている。

「婚約者様、失礼いたします」

 扉の外から控えめな声がした直後、間髪入れずに別の声が重なる。

「食堂の準備は間に合うの? 閣下の予定表、赤字が増えてるわよ!」

 わたくしは寝台から身を起こし、髪をまとめる前にガウンを羽織った。

 昨日まで客人扱いだった部屋が、今日はもう戦場の後方拠点だと告げられている気がする。

 扉を開けると、若いメイドが盆を抱えたまま硬直していた。

 わたくしの顔を見て、息を呑む。

 噂の「悪役令嬢」が、ここで目を開けた。そう思ったのだろう。

「ご心配なく。わたくし、噂よりはずっと打たれ強いのですわ」

 笑ってみせると、彼女は慌てて頭を下げた。

「申し訳ございません。閣下の朝は……その……」

「速いのですね」

「はい。速すぎます……!」

 廊下の向こうでは、書類箱を抱えた執事が、門番に何かを叫んでいる。

 来客の馬車が増えた、と。

 新聞売りが屋敷前に張りついた、と。

 わたくしの名が見出しに踊るのは、きっと今日もだ。

 曲がり角を曲がったところで、黒い上着の影とぶつかりそうになった。

 ぶつかる寸前、影が肩を引き、避ける。

 眼鏡の銀縁が、薄暗い廊下の光を拾った。

「……早いな」

 クロード様だった。髪はきちんと整っているのに、目元だけが寝不足の色を隠せていない。

「宰相邸の朝は、優雅とは程遠いのですね」

「優雅に見せる余裕があれば、国庫も黒字だ」

「なるほど。優雅は財政の余白、ですわね」

 返した瞬間、クロード様の視線がこちらに向く。

 声色は変わらないのに、空気の温度が少しだけ上がった気がした。

「朝食に遅れるな。使用人が困る」

「承りましたわ」

 彼はそれだけ言うと、廊下の奥へ消えていった。

 背中が、紙と鉄の匂いをまとっている。

 なのに、その背中に追いつきたいと思う自分が、少しだけ怖い。

 食堂は長いテーブルが中央に置かれ、窓から冷たい光が差し込んでいた。

 席は端と端。距離が、儀礼として固定されている。

「おはようございます、クロード様」

「おはよう、レティシア」

 互いの声が重なることはなく、ずれて着地する。

 パンの香りと湯気だけが、居心地の悪さを誤魔化してくれる。

「昨夜は……眠れましたか」

 わたくしが口にした瞬間、言葉の浅さに気づいてしまった。

 眠れたかどうかを聞いて何になる。眠れるわけがないのに。

「眠る必要がある時は眠る」

 クロード様は淡々と答え、紅茶に手を伸ばした。

 嘘ではない。けれど、真実の形でもない。

 そういう男だと、もう分かり始めている。

 沈黙が落ちる。

 使用人の気配が、壁紙の模様に溶けていく。

 視線だけがこちらの会話を拾おうとしているのが分かった。

 救いを求めるように、わたくしは新聞を手に取った。

 社交欄の文字が、容赦なく目に刺さる。

 悪名高き令嬢。宰相を籠絡。野心の化身。

 どれも、昨日の舞踏会の後から何度も浴びた噂の焼き直しだ。

 胸の奥がひやりとする。

 破滅ルートを折ったはずなのに、別の形で首に縄が掛かる感覚。

 わたくしは紙を畳み、微笑みの形を作った。

 笑っていられる方が、まだ安全だ。

「随分と、筆が元気ですわね」

「筆が元気なうちは、街はまだ平和だ」

「では、平和の指標として毎朝読めと?」

「役に立つ部分だけ拾え」

 そこでわたくしは、別の欄に目を留めた。

 王太子派の奥方主催の茶会。薔薇園。慈善の名目。

 綺麗な単語が並んでいるのに、紙面の匂いだけが妙に冷たい。

「……これ、開催が近いのですね」

 指先で行をなぞると、クロード様の視線が同じ場所に落ちた。

「君の方が先に気づくとはな」

「筋書きの匂いがしますもの」

「その言い回しは便利だな。説明が要らない」

 そこから先、会話の歯車が噛み合った。

 茶会の名目と実態。招待客の顔ぶれ。王都の物価の揺れ。税の取り方の穴。

 パンが冷める速度より速く、話が進む。

 わたくしの中の緊張が、別のものに変わっていく。

 興奮だ。高揚だ。生きている実感だ。

 不意に、クロード様が紙面から目を上げた。

「……顔色が悪い」

 その言葉が、胸の奥に刺さった。

 政務の話の延長でしかないはずなのに、見られていたという事実が熱になる。

「大丈夫ですわ。慣れておりますので」

「慣れた顔色は、長持ちしない」

 言い切るように言って、彼は紅茶を置いた。

「噂は放っておけ。必要なら私が切る」

 その瞬間、わたくしの心が大きく揺れた。

 守られるのは苦手だ。守られると、甘えが生まれる。

 甘えは、破滅より危険だと前世が教えてくる。

 それでも、喉の奥が痛くなるほど嬉しいのは、どうしようもない。

 朝食が終わると、わたくしは立ち上がった。

 椅子はまだ、ここでは家具のままだ。

 でも、隣の執務室にある空席の椅子は、家具ではないのだろう。

「少しだけ、お仕事を見学しても?」

「見学で済むとは思わんが」

「では、手が余っているところだけ」

「余っている仕事などない」

 返答が冷たいのに、拒絶ではない。

 そういう温度を、この男は持っている。

 執務室に入った瞬間、紙の山が視界を塞いだ。

 机の上だけではない。棚にも、床際にも、封蝋の赤が点々と並ぶ。

 わたくしは息を整え、山の前に立った。

「急ぐものから分けますわ」

「好きにしろ。ただし、勝手に処分はするな」

「処分するのは、今のところ噂だけにしておきます」

 仕事になると、身体が軽い。

 部署名、期限、差出人。指先が紙を走り、頭が勝手に整理していく。

 クロード様の視線が刺さる。けれど、それは監視ではなく計測だ。

 この速度でどこまで動けるか、測っている。

 しばらくして、彼が短く息を吐いた。

「……合格だ。今日はここまででいい」

「もうですか」

「慣らしだ。明日からは、本格的に頼む」

 言われた瞬間、嬉しさが先に来てしまい、すぐに自分を叱った。

 喜ぶな。浮かれるな。ここは椅子の上ではない。

 でも、胸の奥で何かが灯るのを止められない。

 その時、扉が叩かれた。

 執事が入ってくる。手には厚い封筒の束。

「閣下、社交の招待状が到着しております。中に……王太子派からのものが」

 クロード様の表情が、さらに静かになる。

「上に置け」

 束のいちばん上の封蝋が、薔薇の形に見えた。

 白く整った花弁の輪郭が、なぜか棘の匂いを連れてくる。

 わたくしは、目だけで封筒の端の会名を追った。

 息が止まる。

 文字面は優雅なのに、前世の画面みたいに冷えて見えた。

 クロード様は封筒に触れず、執事へ言う。

「差出人は」

「王太子派の奥方にございます。日時は3日後、会場は薔薇園と」

「分かった。下がれ」

 扉が閉まる音が、やけに大きい。

 クロード様はようやく手袋を外し、封筒を机の端へ滑らせた。

 わたくしの方へ。

「これを断れば、向こうは別の形で来る」

「受ければ、わたくしが標的になりますわね」

「標的になるのは今に始まったことではない」

 淡々とした声音が、逆に残酷だった。

 わたくしは封蝋の薔薇を見つめた。

 破滅ルートは折った。けれど、世界はまだ筋書きの続きを要求してくる。

「行くべき理由は、ありますか」

「ある。向こうの手札を見せてもらう」

「わたくしの手札も?」

「君は自分で切れ」

 その言葉で、怖さの底が少しだけ固くなる。

 わたくしは封筒から視線を外し、微笑みを作った。

 震えを隠すのではない。整えて、前へ出すための形だ。

「承りましたわ。婚約者として、きちんと笑ってみせます」

 クロード様の目が、ほんの僅かに細まった。

「そうしろ。私の隣で」

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