Masuk目を覚ました瞬間、宰相邸が燃えているのかと思った。
壁の向こうで走る足音、廊下を切る指示の声、紙束の擦れる音。 まだ陽が昇りきらない時刻なのに、空気だけが昼間の速度で動いている。「婚約者様、失礼いたします」
扉の外から控えめな声がした直後、間髪入れずに別の声が重なる。 「食堂の準備は間に合うの? 閣下の予定表、赤字が増えてるわよ!」わたくしは寝台から身を起こし、髪をまとめる前にガウンを羽織った。
昨日まで客人扱いだった部屋が、今日はもう戦場の後方拠点だと告げられている気がする。扉を開けると、若いメイドが盆を抱えたまま硬直していた。
わたくしの顔を見て、息を呑む。 噂の「悪役令嬢」が、ここで目を開けた。そう思ったのだろう。「ご心配なく。わたくし、噂よりはずっと打たれ強いのですわ」
笑ってみせると、彼女は慌てて頭を下げた。「申し訳ございません。閣下の朝は……その……」
「速いのですね」 「はい。速すぎます……!」廊下の向こうでは、書類箱を抱えた執事が、門番に何かを叫んでいる。
来客の馬車が増えた、と。 新聞売りが屋敷前に張りついた、と。 わたくしの名が見出しに踊るのは、きっと今日もだ。曲がり角を曲がったところで、黒い上着の影とぶつかりそうになった。
ぶつかる寸前、影が肩を引き、避ける。 眼鏡の銀縁が、薄暗い廊下の光を拾った。「……早いな」
クロード様だった。髪はきちんと整っているのに、目元だけが寝不足の色を隠せていない。「宰相邸の朝は、優雅とは程遠いのですね」
「優雅に見せる余裕があれば、国庫も黒字だ」 「なるほど。優雅は財政の余白、ですわね」返した瞬間、クロード様の視線がこちらに向く。
声色は変わらないのに、空気の温度が少しだけ上がった気がした。「朝食に遅れるな。使用人が困る」
「承りましたわ」彼はそれだけ言うと、廊下の奥へ消えていった。
背中が、紙と鉄の匂いをまとっている。 なのに、その背中に追いつきたいと思う自分が、少しだけ怖い。食堂は長いテーブルが中央に置かれ、窓から冷たい光が差し込んでいた。
席は端と端。距離が、儀礼として固定されている。「おはようございます、クロード様」
「おはよう、レティシア」互いの声が重なることはなく、ずれて着地する。
パンの香りと湯気だけが、居心地の悪さを誤魔化してくれる。「昨夜は……眠れましたか」
わたくしが口にした瞬間、言葉の浅さに気づいてしまった。 眠れたかどうかを聞いて何になる。眠れるわけがないのに。「眠る必要がある時は眠る」
クロード様は淡々と答え、紅茶に手を伸ばした。 嘘ではない。けれど、真実の形でもない。 そういう男だと、もう分かり始めている。沈黙が落ちる。
使用人の気配が、壁紙の模様に溶けていく。 視線だけがこちらの会話を拾おうとしているのが分かった。救いを求めるように、わたくしは新聞を手に取った。
社交欄の文字が、容赦なく目に刺さる。 悪名高き令嬢。宰相を籠絡。野心の化身。 どれも、昨日の舞踏会の後から何度も浴びた噂の焼き直しだ。胸の奥がひやりとする。
破滅ルートを折ったはずなのに、別の形で首に縄が掛かる感覚。 わたくしは紙を畳み、微笑みの形を作った。 笑っていられる方が、まだ安全だ。「随分と、筆が元気ですわね」
「筆が元気なうちは、街はまだ平和だ」 「では、平和の指標として毎朝読めと?」 「役に立つ部分だけ拾え」そこでわたくしは、別の欄に目を留めた。
王太子派の奥方主催の茶会。薔薇園。慈善の名目。 綺麗な単語が並んでいるのに、紙面の匂いだけが妙に冷たい。「……これ、開催が近いのですね」
指先で行をなぞると、クロード様の視線が同じ場所に落ちた。「君の方が先に気づくとはな」
「筋書きの匂いがしますもの」 「その言い回しは便利だな。説明が要らない」そこから先、会話の歯車が噛み合った。
茶会の名目と実態。招待客の顔ぶれ。王都の物価の揺れ。税の取り方の穴。 パンが冷める速度より速く、話が進む。 わたくしの中の緊張が、別のものに変わっていく。 興奮だ。高揚だ。生きている実感だ。不意に、クロード様が紙面から目を上げた。
「……顔色が悪い」
その言葉が、胸の奥に刺さった。 政務の話の延長でしかないはずなのに、見られていたという事実が熱になる。「大丈夫ですわ。慣れておりますので」
「慣れた顔色は、長持ちしない」言い切るように言って、彼は紅茶を置いた。
「噂は放っておけ。必要なら私が切る」
その瞬間、わたくしの心が大きく揺れた。 守られるのは苦手だ。守られると、甘えが生まれる。 甘えは、破滅より危険だと前世が教えてくる。 それでも、喉の奥が痛くなるほど嬉しいのは、どうしようもない。朝食が終わると、わたくしは立ち上がった。
椅子はまだ、ここでは家具のままだ。 でも、隣の執務室にある空席の椅子は、家具ではないのだろう。「少しだけ、お仕事を見学しても?」
「見学で済むとは思わんが」 「では、手が余っているところだけ」 「余っている仕事などない」返答が冷たいのに、拒絶ではない。
そういう温度を、この男は持っている。執務室に入った瞬間、紙の山が視界を塞いだ。
机の上だけではない。棚にも、床際にも、封蝋の赤が点々と並ぶ。 わたくしは息を整え、山の前に立った。「急ぐものから分けますわ」
「好きにしろ。ただし、勝手に処分はするな」 「処分するのは、今のところ噂だけにしておきます」仕事になると、身体が軽い。
部署名、期限、差出人。指先が紙を走り、頭が勝手に整理していく。 クロード様の視線が刺さる。けれど、それは監視ではなく計測だ。 この速度でどこまで動けるか、測っている。しばらくして、彼が短く息を吐いた。
「……合格だ。今日はここまででいい」
「もうですか」 「慣らしだ。明日からは、本格的に頼む」言われた瞬間、嬉しさが先に来てしまい、すぐに自分を叱った。
喜ぶな。浮かれるな。ここは椅子の上ではない。 でも、胸の奥で何かが灯るのを止められない。その時、扉が叩かれた。
執事が入ってくる。手には厚い封筒の束。「閣下、社交の招待状が到着しております。中に……王太子派からのものが」
クロード様の表情が、さらに静かになる。「上に置け」
束のいちばん上の封蝋が、薔薇の形に見えた。 白く整った花弁の輪郭が、なぜか棘の匂いを連れてくる。わたくしは、目だけで封筒の端の会名を追った。
息が止まる。 文字面は優雅なのに、前世の画面みたいに冷えて見えた。クロード様は封筒に触れず、執事へ言う。
「差出人は」
「王太子派の奥方にございます。日時は3日後、会場は薔薇園と」 「分かった。下がれ」扉が閉まる音が、やけに大きい。
クロード様はようやく手袋を外し、封筒を机の端へ滑らせた。 わたくしの方へ。「これを断れば、向こうは別の形で来る」
「受ければ、わたくしが標的になりますわね」 「標的になるのは今に始まったことではない」 淡々とした声音が、逆に残酷だった。わたくしは封蝋の薔薇を見つめた。
破滅ルートは折った。けれど、世界はまだ筋書きの続きを要求してくる。「行くべき理由は、ありますか」
「ある。向こうの手札を見せてもらう」 「わたくしの手札も?」 「君は自分で切れ」その言葉で、怖さの底が少しだけ固くなる。
わたくしは封筒から視線を外し、微笑みを作った。 震えを隠すのではない。整えて、前へ出すための形だ。「承りましたわ。婚約者として、きちんと笑ってみせます」
クロード様の目が、ほんの僅かに細まった。「そうしろ。私の隣で」
大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。 香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。 視界の端に、黒い文字が走った。 黒薔薇の宝珠。 浄化儀礼。 開戦。 わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。「レティシア」 背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。 その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。「扉は人を選ぶんだってさ」 隣でユリウス殿下が、さらりと言った。 冗談の口調なのに、目が笑っていない。「選ばれたい趣味はございませんわ」「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」 返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。 神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。 テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。「こちらでは、左膝を……その、先に……」 わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。 王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。 リディア殿下が、小さく笑う。「迷った?」「迷いません。確認しただけですわ」「確認は大事。数学でも政治でもね」 救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。 回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。 その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。 祭壇の間へ入った。 中央の台座に、宝珠があった。 黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。 見た瞬間、胃が裏返った。 前
日付も、場所も、順番も――前世で見た画面と同じだった。 帝国から届いた封書は、薄いのに重い。封蝋の黒薔薇が、指先に刺さるみたいに冷たい。 表題は「黒薔薇聖核浄化儀礼 式次第」。 わたくしの喉が、勝手に鳴った。 序、参列, 祝詞、献納、聖核奉安、誓約文朗読、閉式。 欄外に、王国特使の名で空欄が用意されている。 次の頁。添えられた挿絵のせいで、視界が揺れた。 硝子の棺に眠る黒い核。薔薇の棘みたいな曲線。見ただけで、こめかみが脈を打つ。 ……嫌だ。 あれに触れた瞬間から、戦争が始まる。 背後で扉が開く音がした。 わたくしは反射で紙を伏せる。遅かった。「レティシア」 クロード様の声は低い。怒っていないのに、逃げ道が消える声だ。 机の上から封書を拾い上げられた。紙が擦れる音が、やけに大きい。 わたくしは笑おうとして、失敗した。「顔色が悪い」「……帝国の朝は、空気が硬いだけですわ」「言い訳の精度が落ちている」 指先が、わたくしの額に触れた。冷えている。 その接触だけで、張り詰めていた何かがほどけかけるのが悔しい。「これは何だ」 クロード様が式次第を開き、視線を走らせる。 挿絵の頁で、眉が僅かに寄った。「……気分が悪いのか」「気分だけなら、可愛いのですが」「可愛いで済まないから聞いている」 逃げても、椅子は奪われる。 わたくしは息を吸って、口の中の乾きを噛みしめた。「この順番が……覚えのある筋書きと重なりますの」「筋書き」「前世の記憶ですわ。戦争に繋がる方の」 クロード様の目が細くなる。理性の光。 それでも、式次第の最後の欄外で止まった。「誓約文朗読。王国特使が読むのか」「空欄が、わたくしの
「遠き隣人が、我が子の隣を訪ねてくれたか」 玉座の間に響いた声は柔らかいのに、逃げ道がなかった。 わたくしは膝を折り、視線を上げないまま呼吸の深さだけを整える。王都の大広間に似た構図。なのに壁の紋章は棘のある薔薇で、軍旗の色が濃い。鏡の国。そう言ったのは、父だったか。 背後でクロードが同じように礼を取った。わたくしの肩に落ちる彼の気配が、いつもより静かで硬い。「レティシア・エルネストでございます。ルーベンス王国の特使として、謹んでご挨拶申し上げます」「特使、か。よい名だ」 皇帝陛下は微笑んだ。文化人の顔。けれど瞳の底にだけ、長い夜の疲れが沈んでいる。「だが、席は言葉より正直だ」「我が子よ。客人は椅子で迎えよ。言葉ではなく、席で」 椅子。 その単語だけで胸の奥が冷えた。宰相執務室の、空席が脳裏を掠める。あの場所に座れるのは、誰か。わたくしは、どこに座るのか。「父上、もちろん」 皇太子ユリウス殿下が軽く笑って、まっすぐこちらを見た。恋愛に素直で、政治には冷たい――船の上で聞いた評判が、視線の温度だけで裏返りそうになる。「王国の黒薔薇令嬢。君が来てくれて嬉しい」 その言い方が、もう社交の罠だ。嬉しい、の裏に条件が潜む。 玉座の脇から滑るように進み出たのは、細身の男。黒に近い官服、銀の鎖。目が笑っていない。「帝国宰相、ハインリヒ・クロイツでございます」 次に、同じ場所へ歩を進めた白衣の聖職者が、静かに十字を切った。白の中に、刺繍の黒薔薇が混じる。目元だけが冷たい。「大司教セルジオ・メルカド。主の祝福が、あなたの旅路にありますように」 最後に、皇太子の少し後ろで腕を組んでいた女性が、わたくしへ小さく顎を上げた。背筋がまっすぐで、瞳が理屈の光をしている。「皇女リディア。……あなた、噂より面白そうね」 政治、軍、宗教、皇族。 たった今、帝国の骨格が並べられた。わたくしの足元に、見えない盤面が敷かれていく。
「ようこそ、帝都へ。王国の黒薔薇令嬢」 城門の影から出てきた青年が、そう言って微笑んだ。 港の湿った風が、金属と香辛料の匂いを運んでくる。石造りの城壁は王都より高く、旗は多い。軍の鷲と、光薔薇教の紋章と――黒薔薇を模した意匠まで、目につく場所へ誇らしげに掲げられていた。 私の胸の奥が、ひやりとした。 黒薔薇。帝国でその語は、ただの花ではない。「お迎えが早すぎますわね、殿下。まるで逃がさないと告げているみたい」 「逃がしたら、僕が怒られる。皇帝にね」 彼は言い切って、私へ手を差し出した。指先に迷いがない。 帝国式の挨拶だ。握手……そのまま、手袋越しに口づける。 脳裏のどこかで、前世のゲームのフレーバーテキストがぱちりと点いた気がした。私は余計な間を作らず、手袋の甲を差し出す。 唇が触れる直前、彼は視線だけで私の顔色を確かめた。「怯えてない。やっぱり噂どおりだ」 「噂は当てになりませんわ。殿下も、わりと」 「痛い。君、初対面で刺すのが上手いね」 笑いながらも、彼の瞳は冷たいほど澄んでいた。「フェルディナンド帝国皇太子、ユリウス・フォン・フェルディナンド。歓迎するよ、レティシア・エルネスト公爵令嬢」 名乗りが終わる前に、帝国の将校が儀礼の声を張る。「王国よりお越しの、皇太子妃候――」 「違う」 ユリウス殿下が、柔らかい声で遮った。 「彼女は王国の特使だ。僕の客人。言葉を選んで」 将校の背筋が、音を立てそうに硬直する。 その瞬間、私の認識が裏返った。 帝国は私を飾りにする気だと思っていた。けれど、少なくとも皇太子は、私の札を「妃候補」から「特使」へ戻した。 ありがたい。けれど同時に、怖い。これは貸しでも保護でもなく、取引だ。「恐れ入ります、殿下」 隣でクロード様が、やけに丁寧な敬語を置いた。口調が整いすぎていて、逆に刺々しい。 「王国宰相、クロード・フォン・ラグランジュ。特使代表として、礼を」 「礼はいい。君は相変わらず固いね、
「帝国は、王国ほど王様の顔色を気にしませんので」 湯気の立つ皿の向こうで、帝国側の文官が涼しい顔で言った。船の食堂は昼でも薄暗く、波のうねりが床板をゆっくり押し上げる。 私はスプーンを止めた。王の言葉に怯え、宰相の判断に救われてきたこの国で育った身には、軽く投げられたその差が刺さる。 隣にいるクロードは黙っている。黙り方が、いつもより硬い。彼は私の皿の手前に置かれた白い布を、必要以上に丁寧に折り直した。「顔色を気にしない、というのは羨ましい響きですわね」 微笑んで返す。口角だけで。 文官は、こちらの反応を値踏みするように目を細めた。「羨ましい、ですか。では王国は楽でしょう。命じる者が明確だ」「明確なぶん、歪みも明確に溜まりますの」 クロードの視線が私の横顔に触れた。ほんの少し、息が浅くなる。 軍服の男が大きく笑い、食器を鳴らした。「歪みなら帝国にもあるさ。議会の連中は、剣を握ったこともないくせに戦の話をする。口は達者でな」 その言葉に、私の背筋が冷える。戦。 潮の匂いより先に、古い記憶の匂いが鼻を刺した。前世で遊んだ、あの物語の分岐点。平和が、音もなく戦に変わる瞬間の手触り。 私はスープを飲んで、胃の底に落とした。落ち着け。ここはゲームの画面じゃない。私は駒じゃない。「帝国は軍拡を進めていると聞きましたわ」 私がそう言うと、軍人は肩をすくめた。「進めているのは隣の小国も同じだ。海の向こうは広い。守るなら、備えるしかない」 文官が口を挟む。「守る、という言い方が気に入らない議員も多い。皇帝陛下の権威は強いが、帝国は陛下だけで回っていない。貴族も商会も宗教も、みな席を欲しがる」 席。 その単語だけで、胸の奥に椅子の背もたれが浮かぶ。帝国で用意される席は、私にとって居場所なのか、それとも檻なのか。 私は敢えて、話を数字へ引き寄せた。「席を欲しがるなら、税の配分は揉めますでしょう。航路税と港湾税、帝国はどちらを重く見ますの
「皇太子妃候補レティシア・エルネスト様、乗船を確認」 港の書記が淡々と読み上げた肩書きが、潮の匂いより先に喉を刺した。 宰相の婚約者になったはずの私が、いつの間にか帝国の妃候補として数えられている。 王国の岸が、鏡の向こう側に沈んでいく。 桟橋は霧と人の熱でざわついていた。 荷を運ぶ男たちの掛け声、帆の軋む音、軍靴の乾いた足音。 全部が現実なのに、私の足元だけが薄氷みたいだった。 レオンハルト陛下が護衛の輪を割って歩み出る。 王冠はなくとも、海風が勝手に膝を折るみたいな圧がある。「忘れるな。これは政略である前に、和平のための旅だ」 命令ではなく、釘だった。 私は息を吸って、頷く。「陛下の釘は、痛いほど効きますわ」 言ってしまったあとで、自分の声が震えているのに気づく。 笑いに変える余裕なんてないのに、癖で口が動く。 父は私の手を握ったまま離さない。 侯爵の手は温かいのに、爪先は冷える。「目で戦うな。戻る場所は、まだ王国にある」 母は私の髪を整えるふりをして耳元で囁いた。 香の匂いが、子どもの頃の寝室を連れてくる。「椅子はね、座るよりも……降りる時のほうが勇気が要るのよ」 胸の奥が、ぐらりと揺れた。 宰相の隣の椅子。 王国のために座ると決めた椅子。 なのに今、私はその椅子ごと船に載せられている。 舷側へ向かう途中、視線を感じて足が止まる。 桟橋の端、少し離れた場所に馬車がある。 幌の影に、見慣れた金髪が揺れた。 アルノルト。 元王太子。 私が想像していたのは、憎しみか、嘲りか、あるいは自分勝手な呼び戻しだった。 けれど彼は、ただ帽子のつばを押さえ、深く頭を下げた。 私のほうへ、ではなく。 王国そのものへ、という角度で。 それが、最悪だった。 私の中で終わったはずの







